【賃金労働者は奴隷である】『隠された奴隷制』植村邦彦

こんにちは、かずしいです。

先日、わたしが日参しているあるリタイアブログで、いくつかおすすめの本が紹介されていた。その中で気になった1冊が、図書館の蔵書にあったので、借りて読んでみた。

それが、『隠された奴隷制』(植村邦彦・著、集英社) である。

ものすっごくざっくり要約すると、資本主義社会の賃金労働者は「奴隷」である、という内容。

(本文では、奴隷制の成立、奴隷制に対する思想史を論拠にしてじっくり考察しているので、興味があったら読んでみてほしい)

自分は「奴隷」だ、という感覚は、前職の総合病院で働いていたときに頻繁に感じていたものだ。

(現在パート勤務しているときも時々感じる・笑)

自分の体を、時間を、逃れられない場所に、労働に、長時間強制的に縛りつけられている感覚。当時は言語化できていなかったが、まさに自分は「奴隷」だな、という感覚だった。

本書の中で、興味深く思ったのは、著者が引用しているアメリカの人類学者、デヴィッド・グレーバーの『負債論』(2011年)の記述だ。

資本主義社会の大多数を占める労働者は、奴隷ではないとみなされている。

なぜなら、現代の労働者は、自分の自由意志に基いて、自分の所有する労働力を時間制限付で資本家に販売している自由人だからだ。奴隷には、その自由はないのだから。

しかし、グレーバーは、そうした制度の成立根拠を問題にしている。その問題とは、『隠された奴隷制』からのまた引きになるが、

 わたしたちがわたしたち自身を所有しているということは、奇妙なことに、わたしたち自身に主人と奴隷の役割を同時に割り当てるということなのだ。「われわれ」は(財産に対して絶対的権能を行使する)所有者であると同時に(絶対的権能の対象である)所有される事物である。

と言う点だ。植村氏は、“グレーバーが指摘しているのは、「自由な」賃金労働者とは、主人であると同時に奴隷でもある人間、自分自身が主人と奴隷に二重化してしまった人間だ、ということである”(229頁)と解説している。

つまり、賃金労働者(わたしも、おそらくあなたも)は、自分の意志で自由に労働することを決めた自由人である一方、賃金労働している間は「奴隷」なのだ。

自分を自分で奴隷化している人間を大量に必要とする制度、それが資本主義である(怖ッ!)

しかも資本主義制度が、古代ギリシアやローマ、カリブの砂糖きびプランテーションの奴隷制度や、南部アメリカの綿花農場の黒人奴隷制度などと比較して、より醜悪なのは、奴隷はいないことになっており、奴隷自身も自分が奴隷とは気がついていない、という点である。

自分が奴隷だと気づいていれば、自分の苦しみの責任は、自分の自由を奪い労力を搾取する所有者にあるわけだから、反抗、反逆したり、逃げ出したりすることができる。

しかし、賃金労働者は、(実態は奴隷でも)自分の自由意志で労働を売っていると信じているので、低賃金だったり、長時間労働だったり、業務量が過大でこなしきれないことを、自分の能力が低いから、努力が足りないからだと思って、自主的に責任をとってサービス残業してくれたり、過労死するまで働いたりしてくれるのだ。

本当は、そんな環境を作って、改善しない雇用者の責任なのだが、奴隷が代わりに責任をとってくれるのだから、本当に資本主義って(資本家にとっては)素晴らしい制度だ。

著者が、熊沢誠の『過労死・過労自殺の現代史−働きすぎに斃れる人たち』(岩波現代文庫,2018年)に紹介されている多数のケースを検証したところ、こうした労働者自身が「自己責任」をもとに過労自殺に至るケースは、特に新自由主義が広がった2000年台以降に多くみられるという。

長時間労働や低賃金、過重労働なのは、労働者の能力が低いからだという考えは、医療職の現場にも浸透していると思う。

わたしが看護学校を卒業後、入職した総合病院でも、入職直後、指導者の先輩看護師に、「昼休みは自分でつくるものだから」と言われ、すごく違和感をもったことを覚えている。

つまり、業務が終わらなくて昼休みの時間が取れなかったり短くなったりするのは、その看護師の仕事が遅いのことに責任がある(だから昼休みが取れなくなったり、短くなるのは仕方がない)という意味だ。

確かに、例えばスタッフ30人のうち一人だけが毎回業務が終わらずに休憩が取れなくて、他の人は規定通り1時間取れているなら、その人に何か問題があるのかもしれない。

しかし、わたしの働いていた病棟では、そう言っていた先輩を含めて、規定の時間の半分である30分昼休みを取れれば良い方、といった状態だった。

それが、個人の能力や努力に還元されるだろうか?

休憩を取らせるのは雇用者側の責任だし、休憩が取れないような労働環境を改善するのが雇用者の仕事なのに。看護師が自己責任にしてくれれば、雇用者側は何もしなくていいから、楽でいいだろうけど。

結局、資本主義社会で望まれる労働者とは、自分が奴隷だとは気がつかずに、所有者(雇用者や資本家)の責任を自己責任として勝手に責任を取り、自分を奴隷化し続ける人のことだ。

そんな世界で労働者してたら、誰だって病むに決まっている。

読み終わって、「この世界は、地獄だ」とアルミン顔になった。

わたしはアルミン顔になったが、著者である植村氏は、本作の終わりに、奴隷でなくなるための第一歩を提案してくれている。この地獄を、天国とはいかなくても、せめて人間が人間らしく生きられる世界にかえるための、小さな、しかし実践的な一歩である。

 自分たちが暮らしていくための必要な時間を超えて長い時間働くことをやめる。やめさせる。一日の労働時間をたとえ一時間でも短縮するために、そして自分の「自由な時間」を少しでも長く確保するために、自分にできることをする。それが、私たちが奴隷でなくなるための第一歩なのである。

『隠された奴隷制』251頁、植村邦彦・著、集英社

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